Verziere Nakayamaトップページへ

ベレズエーレ中山代表 中山修一 イタリア野菜作りにかける思い

中山修一の写真

ベレズエーレ中山代表の中山修一です。新潟でイタリア野菜作りをはじめて30年近くになります。

新潟はイタリア人コックのピエトロ・ミリオーレさんが日本で最初のイタリア料理レストランである「イタリア軒」(1874年頃オープン、現在のホテルイタリア軒)を開店した街ということもあって、イタリア料理をはじめとした西洋料理との関わりが深く、昔からイタリア料理を出すお店が多くありました。

しかし30年前の当時はまだ新鮮なイタリア野菜などは手に入りませんので、日本で手に入る野菜で何とか工夫しながら料理を作っている所がほとんどでした。

私も人と同じ野菜ばかり作っているだけでは面白くないし、そんな新潟の歴史と環境を踏まえて、それならば自分がまだ誰も作っていないイタリア野菜を作ってやろう、と考えたわけです。


栽培を始めた当時はイタリア野菜の種一つ手に入れるにも一苦労。イタリアと日本の新潟とでは土の組成も気候も全く違うので、栽培方法も全くの手探りというところからのスタートでした。

しかも、そんな状態から苦労して何とか販売できる品質のイタリア野菜ができるようになっても、最初は全く売れませんでした。

当時はイタリア料理レストランのシェフでも実際にイタリアに行って修行したというような人や、あるいはそういう人に教えを受けたという人もまだ稀でしたし、日本の野菜を使ったイタリア料理は作っても、わざわざ本物のイタリア野菜を使った料理を作ろうというシェフはほとんどいなかったのです。一般のお客さんに馴染みのない、聞いたこともないような野菜を使っても、食べる方のお客さんの受けもあまりよくないだろうというシェフの判断もあったのでしょう。

新潟中のイタリア料理店で自分のイタリア野菜を使ってもらうという、当初の目論見は全く外れてしまいました。

今となっては笑い話ですが、その頃はあまりに売れないので、当時健在だった父にせっかく作ったアーティーチョークを倒されて枝豆を作られた、なんていうこともありました。


さすがにイタリア野菜の栽培というのは失敗だったのかと悩んでいた時、雑誌に出ていた上越カトリック教会のマリオ カンドゥチ タルチシオ神父様の記事を見つけました。

心臓病でアメリカでの手術が必要なベトナム難民の少女マリアちゃんを、募金を集めてアメリカの病院に送り出したことや、恵まれない人々の為に一生懸命働いているという内容とともに、マリオ神父様の生い立ちについても書かれていました。

その中でマリオ神父様は、ご自身が第二次世界大戦直前のイタリアに生まれ、まだ幼い頃にお父さんが戦死し、お母さんは爆撃で亡くなったこと、そして幼いマリオ少年が遊んで帰ってくると、お母さんが美味しいアーティチョークのリゾットを作ってくれたことが、数少ないお母さんの思い出だということを語られていました。そしてもう日本には長くいるけれど、こっちにはアーティチョークが無いのでずっと食べていない、ということも。

私はその記事を読んですぐに上越カトリック教会へアーティチョークやズッキーニ等々を持って行ったのですが、マリオ神父様は本当に喜んで下さいました。

その時心に決めたのが、売れる売れないということでなく、たとえマリオ神父様一人でも、喜んで下さる人がいる限り、その人のためにイタリア野菜を作り続けよう!ということでした。あの時マリオ神父様と出会わなかったら、イタリア野菜作りは諦めていたかも知れません。


幸い現在は日本でもより本格的なイタリア料理が普及してきたこともあって、イタリア野菜もだんだんと求められるようになってきました。しかし、マリオ神父様と出会って教えられた、食べる人一人ひとりに喜んでもらうために作る、という気持ちは今も変わっていません。

そんなに大きな農園ではないので作れる量は限られていますが、一人でも多くの方に新鮮なイタリア野菜の美味しさと、それを食べる喜びを感じてもらえるように、これからも日々丹精を込めてイタリア野菜を作っていこうと思っています。


2015年11月カトリック高田教会にて、マリオ神父様と中山修一

2015年11月カトリック高田教会にて、マリオ神父様と